私には兄弟がいる。しかも、男ばかり3人兄弟だ。
そんな男だらけの家庭で、子どもたちを育ててきた母は、それはもう大変だったと思う。
もちろん、私たち3人とも例に漏れず反抗期があり、母にとっては、気が休まる時間などなかったはずだ。
聞けば、母は私を妊娠したとき、内心では「今度こそ女の子を…」と思っていたらしく、女の子の名前まで考えていたという。
結果的には3人目も男だったわけだが、私はそんな母の元で育てられたことを、心から誇りに思っている。
大学進学とともに私は上京し、1人暮らしを始めた。
そのとき初めて、自分の身の回りのことをすべて自分でしなければならなくなり、ハッと気づいた。
毎日温かいご飯が用意されていたこと、部屋がいつも清潔だったこと、お風呂の浴槽までピカピカだったこと――
「これって全部、母がやってくれていたんだ」と。
そんな気づきに胸が熱くなり、すぐに母に手紙を書いた。
メールや電話では伝わらない想いを、あえて手紙という形で届けたかったのだ。
それからは、実家に帰省するたびに、家事を手伝うようになった。
長い時間をともに過ごしてきた母。
けれど、私が母の涙を見ることは、今まで一度もなかった。
感情的になることがあっても、母はいつも強く、明るく、家族を支えてくれていた。
しかし、ただ一度だけ――
私が「急性骨髄性白血病」と告知されたとき、母は声を殺して涙を流した。
実は子どもの頃、交通事故に遭って「助かる確率は50%」と言われたことがある。
私は意識がなかったため、医師とのやりとりは聞いていないけれど、きっとそのときも母は泣いていたのだろう。
でも、私は見ていない。
だからこそ、今回が“初めて見た”母の涙だった。
私はもう30歳を過ぎていた。
これからは、親の面倒を見ていくべき年齢になっていた。
それなのにまたしても、母に心配をかけてしまった。
しかも、ただの風邪や怪我ではない。がん――血液のがんだ。
もし治らなかったら、親より先にこの世を去るかもしれない。
母の涙を目にしたとき、「なんて自分は親不孝なんだ」と心の底から思った。
告知された日、私はひとりでも涙を流したけれど、母の涙を見た瞬間、さらに胸が締めつけられるようだった。
でも――
その涙が、私を奮い立たせてくれた。
「これ以上、母親を悲しませるわけにはいかない」
「もう二度と、泣かせてはいけない」
「次に涙を見せるときは、白血病を完全に克服した“うれし涙”にする」
「俺が今度は母を支える番なんだ」
そう強く心に決めた瞬間、前を向く覚悟が生まれた。
母の涙は、私を前向きにさせてくれた。
情けなさと申し訳なさが混じったあの瞬間に、私は決意した。
絶対に治す。
母のために。
家族のために。
そして、自分のために。
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